名古屋レスキュー隊-よくわかる名古屋|名古屋をするなら

名古屋レスキュー隊

名古屋について触れた部分を、もう一度確認しておきましょう。 こうして茶道のすそ野が広がっていき、日本を代表する文化の1つとしてさらに大成していくことになるのです。では、名古屋の場合はどうか。この土地は他地域よりも権力者の影響が色濃く反映されていることが特徴といえます。その証拠に、利休の弟子の1人として知られる古田織部、もしくは信長の弟であり文化人として現代に名を残す織田有楽の手によって、清州城内に猿面茶室が作られていたのです。この猿面茶室とは、当時最高峰といわれた天下三名席の1つであり、徳川氏の時代になって名古屋城が作られた際には、わざわざ移築されたほどです。

なお、この茶室はその後の第二次大戦時の名古屋空襲時によって焼失しています。それはともかく、名古屋は日本を代表する権力者のおひざ元であり、彼らが愛する茶道についても当然、受け入れられる余地があったということでしょう。では、どのようにして名古屋で茶道が発展していったのか。ちなみに、尾張藩茶道を代表する家には平尾家と粕谷家があるのですが、このどちらもが有楽流であり、その影響力の強さをうかがい知ることができます。ただ、尾張藩の藩士すべてが有楽流に傾倒していたというわけではありません。

というより、そもそもすべての藩士が茶道をたしなんでいたわけでもないのです。この人物、元はといえば将軍家の出身で、のちに徳川御三卿の1つ、田安家の家督を相続。つまり、同じ徳川の姓をもつとはいえ、尾張徳川家とは何の縁もない人物で、それが尾張徳川家の当主(彼も元をたどれば斉荘と同じ将軍家の出身であり、斉荘の弟なのですが)の死により、半ば強引にその家督を相続することとなったのです。そうなった原因が尾張徳川家自身にもあるのですが、そのような経緯もあり、この斉荘の尾張徳川家相続には家臣団から大きな反対意見が上がります。これは後々まで尾を引き、ついには幕末になって攘夷派と佐幕派の対立の要因ともなるのですが、それはまた別の話。

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