名古屋をよく考える-後悔しない名古屋|名古屋をするなら |

ここでは名古屋についてじっくり考えてみましょう。 鳥羽伏見の戦いで徳川軍が敗北すると、尾張藩は押し寄せる新政府軍の江戸侵攻を防ぐ重要な防波堤の役割を果たす。となるはずでしたが、慶勝は佐幕派の家臣を粛正するほどの強硬策をとってまでして、いち早く新政府に帰順。言い分は色々とあるでしょうが、その決断は評価されてもいいのではないでしょうか。明治の世になってからは趣味に生きる反面、徳川家一族の赦免運動を行う、旧尾張藩士による北海道の開拓を指導するなど、あわただしい余生を送りました。さて、随分と話が横にそれましたが、話を名古屋の茶道に戻します。
藩士は富も権力も失ったのですから、茶道どころではなくなり、このとき主だった尾張藩の茶道は廃絶の憂き目に遭ったといわれています。名古屋で茶道をたしなむならば覚えておかなければならないポイントだとも言われています。彼らの茶道は武士のものより幅広く、また武士のものと同様に深い歴史が存在します。名古屋に城が作られたのだから当然、といえばそれまでなのですが、当時、この地の中心地といえば清州でした。かつて織田信長が拠点として、江戸時代に至るまで清州城が尾張国の拠点だったのですが、徳川氏はさまざまな要因からこれを避け、名古屋に巨大な城を新たに築くこととします。
彼らは清州から名古屋まで移動し、名古屋において重要な勢力の一部となります。尾張徳川家の藩祖、徳川義直は幼少のころから父、徳川家康の駿河で養育されていたのですが、尾張藩の当主となることが決まると移住。豪商という存在自体は江戸や大坂など、当時の大都市の各地で見られたものですが、名古屋ではそのなかでも抜きんでた3つの家が存在しました。御三家では幕府に憚ったのか、三家衆と呼ばれるもので、伊藤、関戸、内田の3家がそれであり、彼らが基本となって、名古屋の町人の茶道を発展させていきました。有楽流も元をたどれば千家流だからです。