今知っておくべき名古屋の話-後悔しない名古屋|名古屋をするなら |

名古屋について見直していきたい部分があります。 個別に見ていくと、武士の茶道は有楽流を祖としています。有楽とは、先ほど名前が出た信長の弟である織田有楽斎のことで、彼の茶道を祖としているのが有楽流です。茶道は江戸時代に入るころから既にいくつもの流れが存在していましたが、有楽流はなかでも武家らしい茶の流儀であり、それが徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の意向に沿ったのかもしれません。平和な時代になり、武士にも教養が求められる時代になったとはいえ、あくまで茶道は1つの文化であり、絶対的な力を有したわけではありません。あくまでそういう文化がある、という程度だったのです。
転機が訪れるのは江戸時代の後期、尾張徳川家の12代当主に徳川斉荘(なりたか)という人物が就いたことにあります。12代将軍の徳川家慶は兄にあたります。尾張徳川家は御三家の筆頭であり、本来ならば嫡子がいない将軍家の代わりに将軍候補を擁立できるほどの家柄でありながら、他勢力の妨害に遭って、とうとう将軍を送りだすことがありませんでした。とくに、その時点での将軍家は元をたどると8代将軍、徳川吉宗の血筋。彼は尾張徳川家と争って将軍家の家督を継ぎ、将軍となったあとも尾張徳川家を冷たく遇してきたのです。
田安家時代より親しんでいた裏千家玄々斎という人物を取り立て、さらにはその兄までも巻き込んで茶道三昧の日々を送ります。茶道にもそうした流れが入りこむことはある意味必然であったのかもしれません。尾張徳川家は当然ながら幕府側の一員でありますが、慶勝は尊王攘夷を主張して当時の権力者である井伊直弼と対立。安政の大獄と呼ばれる大粛清の折には、尾張徳川家の藩主でありながら隠居謹慎を命じられ、弟に藩主の座を譲ります。『王命によって催さるる事』、つまり天皇の命に従うことが藩において大事とされていたのです。